June 19, 2011
 未来の作家が最も良く使う言い訳は、でもなにか言いたいことを見つけるには、経験を積まなくちゃ、です。
 たしかにそうです――もし、ジャーナリスト志望ならば。しかし、わたしはジャーナリズムのことはなにも知りません。わたしは小説(フィクション)についてお話ししているのです。そして、もちろん小説というのは、作者の経験、幼年期からこれまでの人生、彼が考え、行ない、目撃し、読み、夢みてきたありとあらゆることから生まれます。しかし、経験というのは、手に入れようとして入れられるものではありません――それは、贈り物です。そしてその贈り物をもらうための必要条件はただひとつ、それに対して心を開いていることです。魂が閉ざされていれば、たとえすばらしい冒険ができても、内乱に遭遇したり、月旅行をしたりすることができても、そのような“経験”にかかわらずなにも表わすものがありません。ところが魂が開いていれば、そんな経験などなくても、すばらしことができるのです。二人の姉妹、エミリーとシャーロットのことを思い浮かべてください。彼女たちの人生経験といえば、イギリスの小さな、違いなく最も退屈な街、ブリュッセルでの一、二年間、それに山とある家事。この生硬で、致命的で、厳しく、貪欲な“経験”の逆巻く波のなかから、彼女たちは文学史上の二大傑作、『ジェーン・エア』と『嵐が丘』を生み出したのです。
 もちろん、彼女たちは経験をもとにして書きました。自分たちが知っていることについて書いたのです――これは、そうするようにといつも指導されることですね。しかし、彼女たちの経験とはどんなものだったのでしょうか。彼女たちが知っていたこととはなんだったのでしょう。およそ“人生”についてではなかったでしょう。彼女たちが知っていたのは自分たちの魂、自分たちの精神と感情でした。そしてそれは、一朝一夕に知ることができるものではありません。七、八歳のころから彼女たちは書き、考え、自分自身の姿を見きわめ、それを描く術を習得してきたのです。彼女たちは想像力を働かせて書きました。この想像力こそが、魂を耕す鋤なのです。彼女たちは内面から、それも技量と勇気と知力のすべてをふりしぼってはじめて到達できる内面の奥底から書いたのです。小説が生まれてくるのはまさにここからなのです。小説家は内面から書くのです。生涯のほとんどを通じて小説家の外側に起きることというのは、実は重要ではありません。
 わたしはこの点にかなり敏感です。と言いますのも、わたしが書くものはサイエンス・フィクションやファンタジー、あるいは空想上の国を扱った作品ですので、大半が当然、わたしが生涯、経験できっこない時、場所、出来事を取り上げているわけです。ですから、若いころ、オリオン座への宇宙旅行だとか、ドラゴンだとかといったものを書きますと、決まって、「知っていることについて書くようにしなさい」という忠告が一定の間隔をおいて耳に届いてきました。わたしの答えは、「でも、わたしはそうしてるんですよ。わたしはオリオン座もドラゴンも空想の国も知っているんです。わたし以外の誰が、わたしの空想の国を知ってるっていうんですか」
 しかし、忠告をしてくれた人たちは耳を貸してはくれませんでした。わたしの言っていることがわからないために、まったく逆のことを言うのです。そういう人たちは、芸術家というのは一巻きの写真のフィルムのようなものだと思っているのです。それを露光し、現像すれば、平面の“現実”が再生できるというわけです。しかし、この考えはまったく間違っています。そしてもし、「わたしはカメラだ」とか、「わたしは鏡だ」などと言う芸術家に出会ったならば、その人間を信用しないことです。彼はあなたをからかっているのですから。芸術家というのは、事柄にはまったく興味がない人種です――興味があるのは真実だけなのです。事柄は外側から知ることができます。真実は内面からしか知ることはできません。
アーシュラ・K・ル=グウィン、深町眞理子(訳) “夜の言葉”